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2019年10月16日 (水)

日記代わりの覚書(アルビ+街歩き)

今更の感、大なれどものぐさジィ~ジの日記代わりの覚書です。

10月5日(土) ☀

相方は高校時代の同期会出席で長岡へ朝からお出かけ。

閑人ジィ~ジは一人で デンカビッグスワンへ・・・
PM 02:03 キックオフ 
アルビレックス新潟VS鹿児島ユナイテッドFC 観戦

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試合前の様子

結果は 6:0 でアルビレックス新潟の勝利。
レオナルド選手が4得点。

勝ったのは喜ばしいもののせめてもう3,4試合前から勝点欲しかった。
これからの残り試合全勝する気構えで頑張って欲しい。



スッキリしない日が2,3日続いた。
10月は紅葉の季節。例年比較的天気が穏やかなのに今年は・・

10月9日(水) ☀

幸い朝からスッキリ晴れてくれ助かった。

9時台の電車で新潟白山へ・・・そして歩いて新潟市庁舎1Fロビーへ。
新潟県高齢者大学(現 シニアカレッジ新潟) 29年卒の同期会行事
回を重ねて今回は16回目の街歩き。

この日は『学校町・関屋・旧 北國街道をたどる。』
参加者 男性 6名 女性 9名 計 15名 (在籍33名)

2グループに分かれ新潟シティガイドが案内です。

Am 10:30 市庁舎ロビー出発

新潟大学歯医学病院から学校町通りへ向かいます。

◎ 三献跡  北國街道、三国街道の新潟町の出入口
  ※ 三献茶屋が有り、旅人と見送り人別れ盃 罪人最後の盃の地。
    (現在何も残っていないし、知ったかぶりのジィ~ジも知らなかった)

◎ 岡本小路 明治中期に岡本元治(酒製造業)が開拓した小路
    (50年以上前、ジィ~ジが学生時代住んでいた懐かしい場所)

◎ 三献刑場跡 (題目寺) 浜往来の仕置場・獄門と呼ばれていた。

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三献刑場跡 (題目寺)
        
 ※ 明和7年(1770) 明和義人 湧井藤四郎・岩船屋佐治兵 斬首獄門
      (明和義人の話は知っていたもののここで獄門は知らなかった)

この付近から旧 北國街道の名残(狭い道の形状)が垣間見れます。

◎ 中央高校 明治33年県立女学校。「旅愁」の歌碑 校舎正面の坂「乙女坂」
    ※ 現在は男女共学 一般人校内立ち入り禁止

◎ 浜往来分岐点 文化(1804)以前の北國街道 
    新潟~下五十嵐~上五十嵐~赤塚へ続く

◎ 菅原神社(天満宮) 幕末まで新潟町と関屋村の境界 小林 存の歌碑。

◎ 関屋浄水場跡 明治43年新潟最初上水道開始 
   関屋の庄屋 斎藤金平衛氏が土地を提供

◎ 新潟高校 明治25年県立新潟中学校として開校
   昭和28年歌会始め召人 會津八一歌碑「船出」
   関屋の庄屋 斎藤金平衛が土地を提供。
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( 写真 左 新潟高校   写真 右 會津八一 「船出」歌碑 )

歌碑 ふなびとは はやこぎいでよ ふきあれし よひのなごりの なほたか久止母
   (船人は はや漕ぎ出でよ 吹き荒れし 宵のなごりの なお高くとも)

 ( 新潟高校校舎は我が家の長男 長女卒業から数年後改築 )

◎ 戊申公園 米沢藩家老 色部長門 追念碑 
    慶応4年(1869)7月29日 菅原神社(天神様)上手の茄子畑で戦死。
 ※ 越後戊申戦争 三大戦場 ① 長岡 ② 新潟関屋 ③ 新発田赤谷

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色部長門追念碑

◎ 念仏寺 浄土真宗大谷派 斎藤山妙定院念仏寺 元治元年(1848)斎藤金平衛創立
    明治44年9月改築 戊申の役 米沢藩戦死者四士の墓あり。
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( 写真 左 念仏寺でガイド氏より説明   写真 右 米沢藩士墓 )

◎ 斎藤家 関屋村の庄屋様 代々金兵衛襲名 
   天保12年(1841)十代目金兵衛 関屋村の庄屋
   戊辰戦争で居宅消失 現在の母屋、土蔵は明治初期のもので国登録文化財

    ( 母屋側の道路沿いには整体病院や店舗 随分雰囲気が様変わり )

◎ 金鉢山 慶応4年7月29日 薩長軍の陣地となり、ここから新潟方面に追撃した。
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東郷神社遥拝の碑

官軍を回向?“東郷神社”遥拝の碑

新潟は数多くの砂丘が存在していた。この金鉢山もそのうちの一つ。
公園造りの当り砂山を開削したところ多数無縁墓があり発掘された人骨は
無縁墓碑の回向塚として[智月寺(尼寺)]に葬られている。

今回の「街歩き」予定終了。 3.5キロ位歩いた? イッパイ歩いたなぁ~
近くの市の施設“関屋公民館”で解散式。
時間もお昼を少し過ぎて15名の内、11名 近くの中華料理店でランチ
食事をとりながら侃々諤々 話が尽きない元気な参加者の皆さんです。

次回の街歩き「医学町界隈」にほぼ決定。
新潟大学医学部の今昔資料館等・・・

ユックリとランチとお喋りを終えて解散 ジィ~ジは近くの越後線 関屋駅から乗車。

追)
関屋の由来 正保2年(1645)公儀御国図に初めて関屋76石の文字。
明暦年代(1655)以降、飛砂、河欠け等で数回移転。
天明7年(1787)長岡藩の御蔵も新潟町へ移転。
現在でも古御蔵屋敷、関屋御船倉町の名が残っている。
天保14年長岡藩領から上知され幕府領となるが文久2年(1862)会津藩領。
慶応4年(1864)戊辰戦争で戦場となった。
明治22年関屋村は新潟市に編入となり、現在に至る。

ジィ~ジの私見
関屋の斎藤家は信長に敗れて越前浜に落ち延びた越前朝倉勢の一族かと。

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コメント

やまちゃんさま
私は高校卒業して新潟大学へ進学したので生粋の
新潟県人ではありませんが、団塊世代より上の年長者は
新潟関屋の斎藤様は知っていると思われます。
斎藤英四郎さんんは北蒲原郡安田(現・阿賀野市)の
出身ですよね。

投稿: 輝ジィ~ジ | 2024年3月 8日 (金) 08:49

輝ジィ〜ジさま、関屋の斎藤はやっぱり有名なんですね。私の祖母は関屋で製材所など幅広く事業を行っていたようです。私の大叔父は経団連の会長をしていました。叔父は現在、関屋で斎藤不動産という不動産会社を経営しています。美濃の斎藤道三の子孫がどうして新潟に?という疑問が子供の頃からありましたが、こちらのブログで納得しました。念仏寺は子供の頃、お盆の頃に提灯持って行った思い出があります。

投稿: やまちゃん | 2024年3月 7日 (木) 04:56

やまちゃんさま
関屋の斎藤家は大きなお寺も建てた大地主で新潟では
知らない人がいません。
越前朝倉家の家臣が新潟へ流れついて村を起こした
末裔だと思います。

投稿: 輝ジィ~ジ | 2024年3月 6日 (水) 09:55

こんにちは。関屋、斎藤のキーワードで辿り着きました。私の亡き母の実家が関屋本村の斎藤で、生前に戦国大名だった斎藤道三の子孫だということを話していた記憶があります。斎藤道三の息子・龍興の子孫が越前の朝倉家に入り、そこから越中を経て、越後に落ち着いたことを調べて知りました。戦前GHQに土地を接収されるまでは海まで関屋近辺の大地主だったそうです。

投稿: やまちゃん | 2024年3月 5日 (火) 17:20

お江戸のリッツ さま
こんにちは お元気そうで何よりです。
些か知ったかぶりのジィ~ジも当たり前なれども知らなかったことが多々あります。
街歩きガイドと一緒に歩くと結構目からうろこ更に
新知識が身につきます。
これからも街歩きは続きます。

投稿: 輝ジィ~ジ | 2019年11月19日 (火) 17:50

今晩は!ジィ~ジ様。
いつもブログを拝見しております。

今年もあの山この山を歩かれ、お元気で何よりです。

さてコメントが遅くなりましたが、ジィ~ジ様のブログで新潟市の知らない歴史を知りました。

高校まで新潟におりましたが、当時の学校では郷土の歴史を深くは習いませんでした。

富山生まれでも、もうすっかり新潟県人、新潟市民ですね。

郷土の歴史をこれからも教えてください。

投稿: お江戸のリッツ | 2019年11月19日 (火) 17:24

FUJIKAZEさま
歴史がお好きとは知っていましたが、実に詳しいですね。
断定はできませんが朝倉勢の一族が船で辿りつき、居を
構え定住したのは角田山の麓。現在の越前浜です。
今でも集落がありますが、優秀な方が多く大きな屋敷が
何軒もあります。
船で落ち延びた時、鶏の鳴き声で浜が近いと解りその地で
定住し現在に至っていますが、今でも鶏に感謝して卵は
食べないとか鳥ノ子神社と言う社も有ります。

投稿: 輝ジィ~ジ | 2019年10月20日 (日) 09:37

こんにちは!
う~ん・・・田中角栄も長岡でしたか・・・。

関屋の斎藤家は信長に敗れて越前浜に落ち延びた越前朝倉勢の一族ではないかとのことですが、そういえば、朝倉義景の元には、やはり信長に美濃を追われた斎藤龍興が逃げ込んで、朝倉の客将として刀根坂の戦いで討死してますね。
その一族という言い伝えは聞いたことがありませんか?
色々とロマンがある土地ですねぇ。


投稿: FUJIKAZE | 2019年10月19日 (土) 15:47

FUJIKAZEさま
いつもありがとうございます。(感謝)
新潟(市)は元々が潟の街だった所為か?城を作るには
不適な土地柄?故に城下町ではなくあんまり伝統的とか
歴史的とか人物的とか特筆するものがイマイチ。
明治の初期には花街として一世を風靡、お江戸 京都に
継ぐ賑わいが有ったようで、その名残か?昔から新潟は
「男と杉の木は育たない」と言われてきたのです。
新潟は町として江戸末期まで長岡藩の統治下にあり
明和の時代に二人の義人が出現したのです。
城下町の長岡や新発田 村上などでは現在までその名残が
かんじられますが、新潟市はイマイチ寂しい?
長岡からは河井継之助 小林虎三郎 山本五十六 そして
田中角栄・・等、傑物を輩出していますが、新潟は近世
文化人 會津八一 坂口安吾 他やっぱり中越 上越地区とは色合いが少し異なる気がします。
是非 新潟市へも足を延ばされますよう。

投稿: 輝ジィ~ジ | 2019年10月18日 (金) 09:01

こんばんは!
「明和義人」ですか。
知りませんでした。
すぐにネットで調べてみましたが、なるほど、田沼意次の悪政とも関連しているんですね。
困窮する新潟の町民の暮らしを救おうと立ち上がった人達が「明和義人」なんですね。
新潟って、気骨のある人が生まれる土地柄なのかなぁ。
そう言えば、山本五十六元帥も長岡の出身でしたね。
一度、中越、下越もゆっくり巡ってみたいものです。

投稿: FUJIKAZE | 2019年10月17日 (木) 22:25

かあちゃん さま
いつもお世話様。
新潟へ来て60年弱 家を構えて47年、新潟人のつもりで
些か知ったかぶりのジィ~ジも知らない事、新発見多々。
新潟は城下町ではないのでAppealするもの少ない感じ。
知識が増える事は認知症対策に少しは貢献?

ジィ~ジには子供が二人、長男と長女。
二人とも新潟高校です。二人とも20年以上前の卒業です。
高校受験 大学受験の塾も一切通ったこと無し。
倅はサッカー娘はバスケット馬鹿でした。 

投稿: 輝ジィ~ジ | 2019年10月17日 (木) 21:26

こんばんは。

北国街道は車で通るとよく目にしてました。
知らないまま歩くより、お勉強してから歩く方が、楽しいでしょうね。

娘さん、息子さん、けんたかご出身?
凄いんですね(^O^)
けんたか←子供が新潟高校の事をこう呼ぶのです。

投稿: かあちゃん | 2019年10月17日 (木) 20:04

もうぞうさま
今晩は~
新潟在住もう直ぐ60年ですよ。(笑)

投稿: 輝ジィ~ジ | 2019年10月17日 (木) 19:36

なんと知らないことが多いことか?
新潟県人より新潟通ですね。

投稿: もうぞう | 2019年10月17日 (木) 19:00

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